動く円

31さい、サラリーマン、1人でいる

11/12 日記「社会との親和性」

①僕はビジネス社会との親和性は悪かろうという絶対的な自信がある。

 

・これは就職活動をする前からずっとそう思っていた。「就活苦戦するだろうな」という直感は当たり、ちゃんと就活に苦戦し、入社後の社会人生活はとんでもなく苦戦し、その会社は辞め、転職活動に苦戦し、なんとか転職し、転職先で苦戦しながら今に至る。

 

・大学時代、友達がインターンを体験した後、「自分は社会になじむことがなんとなく得意な方だということがわかった」とのたまった。僕の口からは絶対に出ない文章だな、と思ったのを覚えている。その友達は数週間の就活の末、しっかりソ〇ーに入社した。この就活というゲーム、結局、能力うんぬんより、親和性の高い人がうまく行って、親和性の悪い人が苦戦するだけの話じゃねーか!と早いうちに察した僕は、腹を括ってしんどいゲームに全身を鞭打ちになった。鞭打ちになることがわかっていたので鞭打ちになっても「そりゃそうだわな」としか思わなかった。

 

・「苦戦」というのは一口に言ってもいろいろあると思う。人には人の善戦、苦戦があると思う。でも僕の場合、自分の容姿も、声も、判断も、行動も、トラウマも、喜びも、何から何まであらゆる一挙手一投足が、この資本主義社会とうまく混ざり合わない、水と油のような関係がしてならない。本当に社会性が無いな自分は、と思う。

 

・最近ではそんな自分と折り合いをつけている。うまくできるに越したことはないけど、うまくできないならうまくできないなりの居場所で生きていこうと。世の中が器用な人たちばかりだとそれはそれで息苦しい世の中になりそうじゃない?それなら自分みたいな不器用な人間だっていてもいいし、不器用な人間でも楽しく生きてやると心に誓ったのだ。

 

 

②人には人のオタク気質があり、その気質の種類で、生きやすさは決まってしまっている説

 

・僕が思うに、人間のモデルケースの頂点に「社会適合性が高い」とか「学問を探究する力が強い」みたいなのがあり、一方で人には人のオタク気質があって、その人間ピラミッドと、オタクの対象との、親和性の問題なんだろうなと思う。例をあげれば、稲盛和夫松下幸之助は完全なる「ビジネスオタク」だ。ビジネスが好きすぎちゃって、探究したくてしょうがなかったのだろう。そんで、その探究がたまたま世の中の需要とマッチしているもんだから、社会では偉大な業績という烙印を押される。これが例えば「へそ毛オタク」とかだったとしたら、どれだけ探究した所で「へそ毛を探究するヤバい人」にしかならないのだ。偉大かどうかは社会との親和性で決まってしまうのだ。

 

・また、「努力して勝ち取る」的なやつがあるけど、自分のオタク気質をボウルに例えるなら、このボウルを水でいっぱいに満たしたくなる欲求があって、その水を注ぐ蛇口の栓の開きっぷりが努力である。したがって、努力して栓を開いて水を注いでも、そもそもボウルの容量が小さいのでだばだばとこぼれ落ちていく。「ビジネス」というボウルがあまりにも小さいので、努力してボウルに水を注ごうが、すでにストレージはいっぱいいっぱいなので、努力が身にならない。大きなボウルにたくさんの水を取り込める人には勝てっこないのである。

 

・だから、自分の中にある食器棚をよく見て、どんなジャンルのボウルならたくさんの水が入るのか、水栓が錆びる前に見つけられたら良いなと思う。

飽きっぽいのでいろんなところに目移りしてしまう性格なので、なかなか大きいボウルにも水が溜まらないんだけど、それでも良いのかなぁ。

 

 

③僕は職人に憧れていたのかもしれない。

 

・最近気付いた。自分は何か時間をかけて少しずつ会得していきたかったんだ。要は職人になりたかったのだ。

 

・今までは広く浅くで、だいたいの表面的な全貌がわかったら次、みたいな水の注ぎ方だった。でもそんなことばかりして深みを知らない大人になってしまった。あんまり沼にハマれなかった。

ひとつのことをずーっと継続して他の追随を許さない境地に達してる人、またはそこを目指して一心不乱になっている人が心底羨ましい。打ち込めることがあるのは羨ましい。自分もそうなりたかった、けど見つからなかった。

 

・学生時代、車の絵を描くのがめちゃくちゃうまい友人がいた。自分も描いてみた。それなりに描けたけどあいつほどは描けなかったのでやめた。あいつは自動車メーカーのインハウスデザイナーになった。

写真を撮るのがめちゃくちゃうまい友人がいた。自分もネットの知識で写真を撮った。それなりに撮れたけどあいつほどは撮れなかったのでやめた。あいつはカメラマンに弟子入りし、プロのカメラマンになった。

そんなことばかりだ。目移りばかりして見よう見まねでやって、浅くできたらやめてしまう。積み上げがとにかくできない。そうしてる間に周りはそれぞれ見えない所まで行ってしまった。自分だけまだ学生の時とさほど変わりがない。

 

・実家の母に電話した際、そんなことを話した。母は「今から始めればいいんだよ」と言った。年齢なんて関係ないのだと。

そしてもう一言「別に何もできなくたっていいんだよ」とのことだった。母は僕の不器用さを完全に理解しているようだ。

 

・そもそも何で境地に達している人にこんなに憧れるんだろう。自分は何オタクにもなれなかった。それが無意識にコンプレックスになっていた。でも何でだろう。

職人は楽しそうだから?境地に達してる人のあの夢中な姿?「この世に生まれたからには本気になって挑戦しようぜ」的な人生哲学?もしくは「すごいことができる」という特別感?能力があるという優越感?もしくはそれによって持て囃されやすいから?ちやほやされたいから?そんな所だろう。

何もないと、目を見張るような特徴もない。誰にも見向きもされない。褒められない。劣っている。社会からマルをつけて欲しい、承認を得たい、だから何かを身につけようとする。

 

・よく「承認欲求モンスター」とか言ったりする。SNSとかでフォロワー欲しさにおかしくなってしまったアカウントのことを指したりする。でも実際、程度の問題で、SNSをやってる時点で皆はじめから承認欲求モンスターなんじゃないかな。自分を見て欲しいというか、この声を人の多いところに流したい、って気持ちはあるよな。でも、目的が「何かを追究したい」じゃなくて「人気になりたい」の方になっちゃってると、おかしくなるよ。それが可視化された承認欲求モンスターなのだな。

10/16 日記「“知る”について」

「・」から始まるのはふと思ったことのメモ

「→」から始まるのはそのメモに対して自分なりに咀嚼して分析してみたことです。

 

 

・「ものを知っていれば知っているほど偉い」は決めつけなのかもしれない。

→これは酸っぱい葡萄的なことではなく、知ってることって決して良いことばかりとは限らないのかも…と、ふと感じた。

なんとなく、知ることと「憂い」は同居しているな、と思ったのだ。いろんな知識経験を積んできた人はどこか憂いがあるというか、その人ならではの辛さ・重さも見え隠れしているなと。

知っている人を中心に考えると解明が難しいけど、逆に、子どもの視点を考えるとわかりやすいかも。彼らって僕らよりもうんとピュアにありのままに世界が見えていて、その見え方はあらゆるものがわかってしまっている大人よりも美しいのかもしれない。知らないことばかりの中を生きていたあくる日の感覚は、大人になった今では実感し難いけど、確かに子どもの頃の公園は今よりもワクワクしたし、山は今よりも大きかったし、雪は今よりも綺麗だった。

→現実にファンタジーの余地がたくさん残っているからだろうか。大人は限りなく現実を生きている。子どもはどんどん自分の主観を膨らませて遊んでいる。そうならなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

10/12 日記「ノリ」

「・」から始まるのはふと思ったことのメモ

「→」から始まるのはそのメモに対して自分なりに咀嚼して分析してみたことです。

 

 

・空気はなんとなく読めている、でもノリについていけない。

→あらゆる所にノリはある。2人きりで喋ることは大好きなんだけど、3人から苦痛になる。3人以上集まるとノリが発生する気がする。だから集団が苦手だ。

→テレビを観ていても、テレビの中(とりわけバラエティ)では独特のノリが発生している。タレントたちはそのノリをサーフィンし、進行している。これが上手い人であればある程、まさに「波に乗っている」状態で、場を席巻することができる。逆に、ノリについて行けない者は「ノリ悪いな」と腫れ物のように扱われ、集団から淘汰されてゆく。

→この「ノリ」がどうも曲者だ。クラスのノリ、部活のノリ、サークルのノリ、飲み会のノリ。

YouTuberの動画をたまに観てみたりするが、既に出来上がってしまっている画面の向こうの「ノリ」に、どうもついていくことができない。知らない人たちのウェーイは全くもって観てられない。でも観てられる人たちがいる。それが不思議だ。

→相手のノリが自分に伝わらない不快感もさることながら、自分たちのノリが相手に伝わらない苦痛もひとしおだ。前日にさんざん盛り上がった企画をいざ次の日に会議で発表したときに、全然ノリが伝わらなかった時のピリッとした空気たるや。

→人間関係の齟齬の大半もこの「ノリ」から生まれるんじゃなかろうか。海外の文化に馴染めないのは、海外のノリにうまく乗れていないからだ。

→僕は仕事で九州に住んでた時まわりの九州人のノリというものが確かにあって、そのノリにどうしてもついて行くことができなかった。なので今は東京に戻ってきているかが、やっぱり自分は関東のノリがぴったりだなと本当に実感する。

 

 

 

10/11 日記「心の対処療法について」

今日、自分の内側を分析しまくって得られた気づきです。

「・」から始まるのはふと思ったことのメモ

「→」から始まるのはそのメモに対して自分なりに咀嚼して分析してみたことです。

 

似たような境遇の方は是非ご参考までに。

 

 

・「俺にはこれがあるし 」という心の対処療法は本当に有効か?

→めちゃくちゃ勉強ができる人がいたとして、「でもこいつより俺の方がサッカーできるし」と思うことで劣等感を克服できる、という対処療法がSNSで散見されるが、これは本当は有効とは言えないんじゃないかとにわかに思い始めている。

→結局この思考も「他人との優劣」で自分の出来高を推論している以上、何の解決にもなっていない。

優越感と劣等感は表裏一体で、劣等感(この場合、劣等コンプレックスと言ったほうが正しいか)に苦しむなら、そもそも人の劣っている所を見つけて優越感に浸ることも間違いだ。優れた人には心の底から尊敬したい。成功をおさめた人には心の底から「おめでとう!」と言ってあげたい、能力に乏しい人には手を差し伸べて引き上げ、ひいては自分を超えてもなお応援したい。

→スポーツ選手が「自分との戦いです」とよく言ったりするが、あのスタンスが一番健康的だ。名目上は人と競い合っているけど、結局自分自身の研鑽に過ぎないのだ。周りなんて見なくてよくて、今ここにいる自分にだけ注視していきたい。

 

10/10 の日記「会議が苦手」

今日、自分を内省して得られた気づきです。

「・」から始まるのはふと思ったことのメモ

「→」から始まるのはそのメモに対して自分なりに咀嚼して分析してみたことです。

 

似たような境遇の方は是非ご参考までに。

 

 

・会議が苦手。生物学的に向いてない気がしてきた。

→理由①例えば自分の主張に対して周りが無理解を示したとき、周りが何を分かってて何を分かってないか、そしてなんで分かっていないのか、何が伝わっていないのかの輪郭がわからない。

逆に自分が何をわかっていないのかも実感できない。周りが自分に諭してくるとき、自分はそれが響かない。如何に自分がそれを分かってないかが分からないからだ。そして難しいのが、自分は実際は理解できている場合であっても、周りから自分が何が分かってないと思われてしまっているかも同時にわからないことがある。歪な勘違い合戦で状況把握はさらに難しくなる。

→理由②どう言葉を伝えれば周りのわかってない部分を補完できるのかがわからない。ストライクゾーンに響く適切な語彙を咄嗟に捻出できない。迂回の連続。

→理由③自分の中で考えている実態のない思いや概念をとっさに言語化できない。例えば企画の進み方が、そのやり方だとまずいのは直感でわかるんだけど、そのまずさを言葉にできない。「まずいよ!」と言って「なんで?」と言われても言い返せない。

→理由④何か発言したらより強固な言葉でねじ伏せられてしまうのではという恐怖がある。

→そもそも、中身は同じなのに、言葉の紡ぎ方ひとつでポジティブに受け止められる場合とネガティブに受け止められる場合があるという現象がめんどくさい!結局世界は言葉でできている。これがめんどくさい!水とDHMOみたいな話だ。詭弁で人の心は動いてしまう。何を発言するかより誰が発言するかでも印象が変わったりする。中身は一つも変わらないのにな。口下手な自分は、とにかく下手なりに誠意を持つことだけは忘れないようにしたい。そうすれば伝えたい気持ちだけは伝わるはずだから。

 

・「行動できないのは傷つきたくないだけでしょ」という言説があるけど、そりゃケガをしないように気をつけるのが人間でしょうと思うのだ。

→傷つかないように、ケガしないように前もってアンテナを立てておくのは生物的な本能である。不安の正体も生命維持のためのアンテナと聞く。人間として正常な反応なのだ。傷つくことをまったく恐れずに刹那的に行動してしまう人はいつか致命的な怪我をするんじゃないか、と見ているコチラがヒヤヒヤすることもある。

でも、結局塩梅の問題で、不安が過度に大きくなると何も行動ができなくなる。自分の場合も不安のゲージがバカになっているので、無尽蔵に漠然と不安になることができる。「認知の歪みだよ〜」と自分自身に言い聞かせる。

→同じこと言われても、傷つかない人と傷ついてズタズタになる人もいる。個人差ってなんだろう。結局は生まれ育ってきた環境だろうか。

「自分の世界で生きてる度」みたいな指標がある気がする。それを親が介入してこなかったり、逆に子が親の顔色を伺ったりなど、他人ありきだと「自分の世界」ではなくなる。これは引きこもりとも違う。言うこと聞かない子 とかでもない。ニュアンス難しいんだけど、自分の芯を大事にしてきて、それを変に他人に侵略されてこなかった人っていうのは、あんまり他人からの評価を気にしてないように見える。

→自分はなぜこんなに傷つきやすいんだろう?まずは兄の存在が大きいかも。何かにつけて兄に競わされ、負け越してきたので、デフォが傷付く方に開けているのかもしれない。

兄の存在があったことで、「兄と比べて」といった、比較の世界の中で生きていかなくてはいけなくなった。これが健全な家庭ならば、兄がいて、弟がいて、それぞれが個性を伸ばしていけばいいのだが、自分の場合、兄が子供の手本のような正統派の遊びに精通するタイプで、自分は奇妙なことにばかり趣味が行くタイプだったので、「それはおかしい」と言われやすかったのだと思う。

それがだんだん気になり始める。兄というベンチマークがあり、兄の邑があり、そこから外れると社会的に孤独になった気がするのだ。

そこを起点として、友達と自分、クラスメイトと自分、大学の同期と自分、会社の人々と自分、それぞれの違和感に過敏になった説がある。

→一回諦めて、「はいズレてます!」と高らかに宣言して、好き勝手過ごせたらどんなに良いだろう。小説家とか、アーティストになった人はすごい。一般のレールからズレたときの社会的孤独感は半端ではないはずなのにな。

 

10/9 の日記「嫉妬について」

今日、自分の内側を分析しまくって得られた気づきです。

「・」から始まるのはふと思ったことのメモ

「→」から始まるのはそのメモに対して自分なりに咀嚼して分析してみたことです。

 

似たような境遇の方は是非ご参考までに。

 

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・良い結果が出せる人に嫉妬してしまう

→自己の表現が第三者に認められなかった経験が蓄積されてしまったからだと思う。

→自分にも、良い結果を出したり、類い稀なる才能を発揮したり、他者を出し抜いて勝つポテンシャルを持っているはずだ!という思い込みがずーっとある。

なまじ小中学生のときに獲得したいものは獲得してきて、その度に親や先生から褒められて、自分は優秀なんだという刷り込みをされてきたからだと思う。

捨てきれないプライドがある。いまだに1年頑張って勉強すれば早稲田に受かるポテンシャルがあるとどこかで思っている。

→諦めるのが下手なのかもしれない。さっさと絶望して諦めた方が綺麗さっぱり切り替えられるのにね。

→結局「大勢の人がいる熾烈な競争に勝っている人」に嫉妬してしまう自分は「勝つ」が欲しくてたまらないのだ。「勝つ」という欲求があることは事実なので、まずはこれを否定せず自覚しよう。

→あとは、「社会的に優位な母体に所属する」という所属欲求、というか箔みたいなものが欲しくてたまらない自分がいる。優れた大学、優れた会社、優れたコミュニティ、優れた実績うんぬん…

要は「人から羨まれたい」という、他者ありきの考え方で欲している。この原動力は健全ではない。

勉強も、「人より点数で勝ちたい」が原動力になっていた。別に好きな教科なんてなかったのに。だから、高校あたりで頭打ちになってきて、学問を好きで学んでいる人にはこのハリボテの原動力では太刀打ちできなくなっていった。要は「好きでやってる人には勝てない」のだ。よこしまな気持ちでやるのは何事もよくない。

 

・承認されることを第一に置きすぎると顔色を伺ったような主体性のない代物ができあがる

→上の話に繋がる。世の中にある「売れるために作られたもの」って、大抵魅力ない。「この人、この物、まわりの顔色を窺って承認されることを第一に置いてるな」ということに気づくと途端に冷める。そこには創作者側の哲学も、深みも、熱意も、何もなくて、中身が空っぽ。

SNSも、「バズを狙ったツイート」は死ぬほど冷める。ひとつも面白くない。確かにバズってるけど、そのバズには1ミリも価値はない。その大量のフォロワー数も空虚な数字に過ぎない。バズアカウントの30000人のフォロワーより、本当の自分を持って活動している人の300人のフォロワーの方がずっと尊くて価値がある。

→ただ、自分を念頭に置き過ぎているとそれはエゴになる。あくまで自分は社会的な契約を交わしているという前提での自分である。そこの塩梅は気をつけたい。

→こういう「結局は自分のために生きる」的な話、アドラー心理学にもあった気がする。でもここの章は特に難しいよね。